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銚子ドリーム 2018.7


久しぶりに連休して千葉県の銚子に行ってきた。   
海を見たいと思ったのと旨い魚を食べたいと思ったのが銚子を選んだ理由だ。と言いたいところだが、銚子は女房が選んだ。
世間が3連休最後の7月16日(月)海の日、午前9時に国立を出発。中央道~首都高~京葉道~その他諸々と、3時間ほど要して銚子に、じゃなくて九十九里浜に到着。海を見たいと思って来たが、果てしなく続く砂浜は海への憧れを萎えさせる。瀬戸内海で育った私には太平洋は広すぎるのだ。

このコーナーは旅行記ではない。酒場の感想記録である。そのことを自覚し本題へ。

「鈴女(すずめ)」、「「魚料理みうら」、「浜めし」、食事に行ったのはこの3軒。全て海沿いの店だ。JR銚子駅から犬吠崎の方に路線がある銚子鉄道。銚子から二つ目の駅が観音駅。どこかで聞いた名前だと思ったら、ミュージシャン菊地成孔氏の実家が銚子で経営していた食堂の名が「観音菊地の天ぷら食堂」。
この辺りにあったのだろう。
菊地成孔氏のHPより。


1日目は「鈴女」でも酒を飲んだ。マグロや金目の刺身やタコの天ぷらや鰯フライ。みんな旨いし値段もそこそこ、合格点だと思う。

今回紹介したいのは、銚子駅から3分ほどの「大衆酒場ドリーム」。
銚子2日目の7月17日(火)はジョン・コルトレーンの51回目の命日。本来なら命日特集をやっているはずだが、定休日。
ドリームはコルトレーンが引き合わせてくれたのかも知れない。




雑然とした昭和レトロな入り口。値段が安いであろうことは予測出来る。
店内は9割程の入り。運よく2人テーブルにもぐり込めた。
ビールをたのんで、メニューをのぞきこむ。サッポロラガービール中ビン400円とある。安い。どれどれ焼酎はと。
伊佐美500円、薩摩茶屋400円、明るい農村400円・・・信じられない安さ。

 最近のお勧めが壁にあふれている。ヒラメ、イカ、つぶ貝・・・殆んどの刺身が300円、高くて400円。次々に注文した。どれも銚子で水揚げされた新鮮な魚、美味い。



つまみは100円からある。上の写真の右下「豚ハラミ煮込み」は300円だけど、中身のシミしみ豆腐だけだと100円。その上の「ヒラメ刺し」は肝が添えてありました。その左「いしもち煮つけ」は200円。「ヤリイカ刺し」300円、「つぶ貝刺し」300円。焼酎色々6種類ほど呑んで腹いっぱい食べて。二人の会計は

でした。全て税込価格表示。
電車賃がかかるけどまた来たい。
4人くらいで開店から飲み続けたい。電車賃ぐらいすぐ元がとれそうだ。


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