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大竹次郎さんの音楽愛

  私が新星堂に入社したのは1973年、23歳の時だった。この当時の新星堂は飛ぶ鳥を落とす勢いで、次々に店舗を増やしていた。稼ぎ頭は吉祥寺駅ビル、当時は吉祥寺ロンロンと呼ばれていた店舗で、毎日客が溢れ、一日の売り上げは百万円単位だった。 最初に私が配属されたのがそのロンロン店で、鬼のように忙しかった。しかし幸か不幸か1ヶ月ほどで西荻店に転勤を命じられる。多分、新人のくせに朝から酒臭かったからだと思う。 西荻は楽しかった。三好店長をはじめ音楽オタクが揃っていた。クラシックの藤原さん、歌謡曲の山森さん。仕事が終わって2階の部屋(昔、新星堂の寮だった)で呑みながら音楽談義に花が咲いた。隣の肉屋の美味いコロッケをツマミに。   それから2年ほどし、長男が生まれた後、店長に指名され、青梅店に転勤する。 まてよ、新星堂での私の社歴を書くつもりではない。大竹社長の音楽愛を語りたいのだ。 大竹次郎さんは先代社長宮崎さんの義理の弟、つまり宮崎さんの奥さんの弟さんで、私が就職した当時は専務だったと思う。 宮崎社長が亡くなり、その後社長夫人が暫く継ぐのだが、すぐに三代目社長に就任したのが大竹さんだ。前後して会社は株式公開し資金が大量に流入したせいだと思うのだが、新宿NSビルにライヴ会場「ミノトール」をオープンさせ、TV東京で音楽番組「エヴァーグリーン・ミュージック」をスタートさせる。いま考えてみると、内外を問わず凄いミュージシャンが出ていた。ジャズ、フォーク、シャンソン、ワールド・・・。 エヴァーグリーンには伏線があって、EGR(エヴァーグリーン・レコード)と銘打って、在庫しなければならない名盤を、新星堂の為だけに各メーカーにプレスしてもらった作品に名づけられていた。 売れる、売れないではなく、内容の良し悪しで在庫を判断する「シリウス・コレクション」も独自に展開した。廃盤状態のものは自社レーベル「オーマガトキ」が発売もした。 考えてみるとレコード屋の鑑だ。 貿易部を作り、洋楽志向の輸入盤店Disk Innを開業。一般の新星堂でも個別に輸入盤のオーダーに応えていた。針の穴のような細かいオーダーに対応していたのだから驚く。 アルバムの復刻ばかりではない。誰も知らないような人のCDを発売したかと思ったら、来日公演までやってしまうのである。 エヴァ・デマルチク。ポーランドの“黒い天使”と...
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アケタの店、明田川荘之さんの事

 アケタの店、明田川荘之さんの事 2024年12月31日 2024年11月16に日土曜日。明田川荘之さんが亡くなった。パーキンソン病を患い、腸がん~食道がんが発見され、胃瘻処置をしての4カ月ほどの入院。 アケタさん、お疲れ様。  彼と私は古くからの顔見知り。74年にアケタの店がオープンした頃、私は新星堂に努めて半年くらい、転属先が西荻窪店。69年から西荻の住人で、当時ジャズ雑誌読者欄の投稿「ジャズ同好会募集」で集まった「細田亭ジャズ愛好会」のメンバーだった。 東映のアニメーターだった細田暉雄さんが主導する会で面白い出会いが山ほどあった。吉祥寺のMEGを開店させる前の寺島靖国さんともその会で知り合った。それが縁でMEGの初代皿回しに採用してもらう。  細田さんの部屋は玄関から入るのではなくテラスから直接入る。デカいスピーカーと座り心地のいいソファーが有って、夜中の2時くらいまで出入り自由だった。19歳から、25歳で西荻を離れるまで、楽しませてもらった。  アケタの店と細田亭は歩いて2,3分の距離にあり、店がオープンした頃は、「大学卒業したばかりの若造(私と同い年)が親から借金してライヴハウスを開店するらしい」と話題になった。  数回店に行った程度で暫くアケタとは縁が切れる。私が青梅店の店長に抜擢され西荻を去るからだ。  多摩の新星堂を数店舖経験し、中央線の繁華街に帰ってくるのは1979年私が29歳の時。当時、タワーレコードやHMV等の外資系が東京に進出し始め、新星堂も輸入盤の重要性に気づいたのだ。高円寺の新星堂発祥店をNO.1とし、吉祥寺に有った、レコード・プラントを買収しNO.2とする、Disk Inn販売部が発足する。  洋楽&ジャンル専門店。アイドルや演歌とはオサラバ。俄然やる気が出てきた。  さて、アケタさんとあまり関係ない話をグダグダと書きました。当時の私はアケタさんの音楽に共鳴していたのでしょうか?あまり良いリスナーではなかったと思う。当時の私は、ジャズを高尚な神聖な音楽ととらえていた。アケタさんのへたくそなイラストのジャケットや演歌チックな演奏を見下していた。 1987年12月30日に録音された「エアジン・ラプソディ」が私の明田川さん偏愛衝動の始まりだった。ほんの一月程前に交通事故で亡くなった国安良夫に捧げられた、アケタの店でのライヴ音源だ。父親...

カーラ・ブレイ安らかに

  2023 年 10 月 17 日。カーラ・ブレイが亡くなった。 ピアニスト、バンド・リーダー、レーベル・オーナー、そして偉大な作曲家。彼女の存在そのものが風貌も含めて、ジャズそのものだった。私にとって、コルトレーンに匹敵するほどの巨大な存在だった。 ポール・ブレイ、ゲイリー・バートン、ジミー・ジュフリー、キップ・ハンラハン、ハル・ウイルナー、チャーリー・ヘイデン・・・そしてスティーブ・スワロー。カーラの周りに集まる男たちはみんな個性的で魅力的だった。 カーラの死は、私の好きだったジャズの大きな部分の死でもあります。心からの哀悼の意を表します。安らかに!

2019.6.3-4 新潟の旅

2019.6.3~4 新潟の旅 久しぶりに旅をした。燕三条経由岩室温泉が一日目。 二日目は弥彦神社から新潟市内の居酒屋巡り。 燕三条で包丁を買う。有名だもんね刃物が、燕市。  江戸時代から続く温泉場岩室温泉は、繁華街がほとんどなく、お湯と旅館自慢の料理を楽しむ渋い温泉。渋いと云っても湯治場ほどひなびていませんが。 二日目は弥彦神社までホテルのバスで送ってもらい神社参拝でスタート。実は50年近く前にここに来たことがある。貧乏旅行で、所持金もほとんど無くて、神社境内の物置みたいなところで野宿をした。あの頃は無鉄砲だった。今は無理。 奉納された酒樽の数々。さすが新潟、日本酒の王者。 弥彦駅から新潟市内へ。 ホテルに荷物を預けて、昼飯も兼ねて繁華街へ繰り出す。 昼はへぎそば。 旅に行ったら中古レコード屋は外せません。 こんなところに地下街が?てな場所にあった「キングコング」 でゲットしたのが早川岳晴さんの奥さん宮崎正子さんの2枚目のアルバム。早川さんも参加している。 『ライブ・アット・ミスティー』 2500円なり。初めて遭遇した。 さて新潟の夜が更けてまいりました。 目星をつけていた店へ。一応予約をしておきましたが幸いでした。予約していないと満席で入れませんでした。「山姥」。 奥阿賀産 生きくらげのおひたし、エゾ鹿鉄板焼き、阿賀町岩谷産 冷やっこ、 のどくろ刺身&〆鯖・・・絶品料理の数々。 酒は奥阿賀の地酒、麒麟山の豊富な銘柄を大プッシュ。大満足。  二件目はウナギ料理の「うなぎ家」 旨いけれど、前の店で食べすぎた。もう帰って寝ます。

ジョージ・タッカー Vol 14

------------------------------------------------------------------------------  大好きなベース奏者ジョージ・タッカーの参加した全てのアルバムをレヴューしたいと 思っている。2008年を最後に更新が止まっていましたが、再開しました。 以前のレビューはこちらから  NOTRUNKS M's selection GT  --------------------------------------------------------------------------------- Vol.:GT-14 リーダー:Arnett Cobb メンバー:Red Garland (piano) George Tucker (bass) J.C. Heard (drums) タイトル: Sizzlin' 録音年月日:19601130 レーベル: Prestige 収録曲: 1. Sweet Georgia Brown 2. Black Velvet 3. Blue Sermon 1. Georgia On My Mind  2.Sizzlin' 3.The Way You Look Tonight Review: 豪放なテキサス・テナーの一角を占めるアーネット・コブ。 ライオネル・ハンプトン楽団での1940年代の活躍が有名です。 後年、交通事故等によって松葉杖に頼る生活となるが演奏の方はいささかの絶えもない。 これは50年代末期から60年代初頭にかけてプレスティッジに集中的に録音された数枚のアルバムの一枚。 ピアノはレッド・ガーランド。 「ジョージア」の付く有名曲が2曲、それも聴きものですが、 表題曲「シズリン」での重く跳ねるタッカーのベース、いいです。

片山広明のこと

2018年11月13日火曜日。テナー・サックスの片山広明さんが亡くなった。 67歳。長年の重度の飲酒が原因の肝臓癌による死だった。 8月8日に当店= NO TRUNKS に DUB で出演した際に旧知の内科医が客として来ていて、「片山さん具合どうですか?」「良かったら私の病院に来ませんか、診てあげますよ」・・・。 そんな感じで病が発見され、発見されたものの手の施しようがなく3ヶ月後に亡くなった。 本人も死期を悟っていたのだろう。 新星堂が Disk Inn と云う名の輸入盤店舗を新規展開したのは1979年、私が29歳の秋だった。吉祥寺に有った、レコード・プラントを買収し Disk Inn NO.2 となる。新星堂の一号店だった高円寺南口店が Disk Inn NO.1 となり、私が店長に抜擢されたのだ。 それから2年程してだろうか、当時高円寺にあったコジマ録音に勤めていた日永田さんから「今度、どくとる梅津バンドと忌野清志郎との合体バンドが出来るらしい」「村上さん、手伝ってもらえないかな?」そんなわけでデモテープ作りを手伝うのだが。 店の定休日を利用しての録音。会社には内緒でね。その当時、どくとる梅津バンド=後の DUB の事はまだよく知らなかった。生活向上委員会は話題になったしファンだったんだけどね。梅津さんと原田さんと板谷さんが目立っていたよね生向委。 しかし、その日の録音で、片山広明のドデカイ音やコブシに、私は KO される。「片山広明恐るべし」「この男、追っかける価値あり」 コルトレーンの「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」を聴いて人生決めた私が再度人生のギアチェンジを試みたのが片山広明の音だった。 片山の無伴奏ソロ・アルバム「 Equator 赤道 」を日永田さんと店の従業員だった寺本さんと3人で制作したのはその翌年だったか。 早川岳晴と角田健とのトリオ作「ドライシェリー」は東京ニュージャズ・フェスティヴァルのレーベル、 NO TRUNKS からの発売。 東京ニュージャズ・フェスティヴァル(以下 TNJF )は当時1980年中頃、日本たばこ産業とピール会社が金に物を言わせて海外から有名ミュージシャンばかり招聘...